道 乱馬は、道を歩いていた。 いつも通る道。ただそこを歩いていた。 目的地は特に決めていない。ただ気分転換に歩いていた。 だが、乱馬の目の前に帽子を目深にかぶった男がその進行を止めた。 「あなたは、誰ですか?」 男はそう言った。 「俺は、早乙女乱馬だ。それがどうかしたのか?」 「そうですか・・・あなたはそれを自分の名前だと思っているのですね・・・では、並の人間でしたか・・・」 男の奇妙な言葉に、乱馬は何か気分が悪くなったような気がした。 「あなたは普通の人間とどこか違うと思ったのですが・・・所詮は並の人間でしたか。残念です。」 男はそんな事を呟きながら、乱馬の前から姿を消した。 「一体なんだってんだよ、あいつは・・・」 乱馬は去っていく男を尻目に、またぶらぶらと歩いていた。 少し歩くと、けばけばしい化粧をした10代後半と見られる女が乱馬の前で立ち止まった。 「あんた、鏡の前で自分が鏡の中の人間だと気付いた事無いでしょ。」 それだけ言うと、女は何処かに行った。 「一体今日はなんなんだよ、みんな訳のわからねー事言いやがって・・・」 乱馬は不快で仕方がなかった。 そして、再び妙な人が近付いて来た。老人だろうか。 「お前さん、HDD(ハードディスクドライブ)の中にあるローカルファイルの一部分で動かされている事にまだ気付かんのか? お前さんも儂も、全て文章としての存在でしかないのだ。どうしてそれに気付かんのだ。」 老人は何か怒った様子で去っていった。 また、乱馬が歩くと人が出て来た。 今度は鼻水をたらした少年である。 「てめー、まだ自分が普通の人間だと思ってんの?馬鹿じゃねーのか?」 そう言うと、少年は走り去った。 「・・・あんなガキに馬鹿呼ばわりされる覚えねーってんだよ。」 乱馬はどんどん溜まっていく不快感をどこかで晴らそうと模索していた。 乱馬は、再び歩いていた。 今度は、ごく普通の40代の女である。 まさかあのおばさんも・・・と乱馬は警戒していた。 「ちょいと。あんた自分の事がわかっていないんだね。その顔を見れば分かるんだよ。 いいかい?自分が存在している事を疑わなきゃ駄目なんだよ。自分の存在が当たり前だなんて思ってるんだろ? 自分の存在が何処から来たのか、それくらいは考えないと。そうしないといつまで経っても並の人間のままだよ。」 女はそれを言うと、何事もなかったかのように歩き出した。 乱馬はもはや何も言う気もなかった。 だが、乱馬は考えだした。 自分が何者なのかを。 そして、今までの人間達が言っていた言葉を理解した。 "誰"と聞いたのは、名前ではなく、その存在自体に対する答えを求めていたのだと。 そして、他の人間達が言っていた言葉−−それが本当だとすれば、自分は文章でのみの存在となってしまう。 俺は、誰かのパソコンの中での人間だって言うのか?じゃあ、この体は?思考は?痛みは? それも、全部文章で表現されたものなのだろうか。しかし、元々あまり考えない乱馬の頭では限界がある。 「いくらなんでも、目の前の太陽や青空が偽物とは思えねえ。だけど、それが現実じゃねえってのか?」 乱馬は信じられないと断定し、それらの考えを捨てた。 しかし、また歩き出した乱馬の前に人があらわれる。 「本当に捨てちゃっていいの?自分を知る答えになるかもしれないのに。」 「人が人である証拠はあるようでない。まるで、鉛筆で書いたものを消しゴムで消したみたいに。」 「自分が想像上の人物だってのがどうして信じられないんだい?自分の意思で動いている訳じゃないからか?」 「世の中には神がいる。ただ、神もまた想像上の存在でしかないんだ。つまり、存在するとしないは一緒なんだよ。」 「人の考えている事が、どうして書かれた事でないと証明できるんだい?」 「君は書かれた人間であり、僕もまた書かれた人間だ。書かれた人間に自分の意思はないが、あるように感じさせているんだよ。 ただ、書いた人間もまた誰かに書かれた人間であるんだよ。だって、書いてこそ生き物は存在するのだから。」 「存在も、知覚も、感情も全て、あるように作られているだけだ。そして、君に自由に行動する権利もない。 書いた人間が理由を付けてそうさせない限りね。」 「世の中には書いた人間と書かれた人間の二種類しかいない。そして、書いた人間は書かれた人間でもあるのがルールだ。 つまり、全員誰かに書かれた人間って事さ。他の動物も、空気や窒素さえ、実在する証拠はないんだよ。」 「目に見えるだけが真実だと思うのかい?自分の視界の外には世界がないかもしれないのに。」 「人は見えるものだけが真実だと思ってしまう。普通の人間だったらそこで終わってしまうだろう。 でも、賢い人間は真実を既に知っているから、狂っていると思われてしまうのだよ。人は本当の真実を恐れるから。」 「君には好きな人がいる。でも、それもまた書いた人間が決めた事だとしたらどうするんだい?」 「書いた人間は君を自由に操れる。本当の君が好きな人間を嫌いに思わせる事も雑作もないだろうね。 また、逆の事もできるけど、君はどうにしろその真実を知ることはできない。ただ事実がそこにあるだけだからね。」 「普通の人は可哀想だよ。自分が自由に生まれ育っていくものだと思っている。」 「ああ、もううるさい!どっかいっちまえ!」 その言葉で、集団は一気に姿を消した。 「ったく、人を人じゃねーみたいに言うなよな・・・」 「では、結論が出たのですね。」 最初に現れた帽子の男だ。 「け、結論ってなんだよ・・・」 「"自分"が"誰"で、"どんな""存在"なのかって事ですよ。」 乱馬はしばらく黙っていた。 「俺は・・・自分は自分で、ここにいるだけの存在じゃねえのか?」 「・・・少しは分かって来たようですが、まだまだですね。では、私が教えますか。 "自分"が果たして"自分自身"である確証はどこにあるのでしょうか。他の人と一瞬でも意識と記憶が変わったりしないのでしょうか。 "自分"と"他人"が違うとどうしていえるのでしょうか。意識がいつも自分のままだと考えているからですか? "自分"="他人"と言うのは考えられない事でしょうか?私はそう聞きたい。しかし、あなたは違うと言うでしょうね。 "自分"という存在はどこまで"自分"と言えますか?名前?住所?細胞のかけらまで自分でしょうか? いや、私は物理的に聞いているのではない。"存在的に"聞いているのです。ですから、目に見えない範囲まできっちり線引きして欲しいのです。 さぁ、この筆で自分の範囲を記して下さい。どうです?記せますか?」 「・・・目に見えないものを目に見えるもので記すのはできないんじゃないのか?」 「そう、まさにその通り。つまり、自分の存在を筆で記す事ができないのと同様に、口で示す事はできないのです。 同様に、他人の境界線も記す事はできない。つまり、自分と他人は区別できないものとなりますよね? だから、自分=他人と言っても間違いとはいえないのではないですか?」 「・・・・・・そう・・・なのか?」 「あなたはまだ普通の人間だからそう思ってしまうのですよ。目に見える他人も、もしかしたら自分の一部なのかもしれない。 そう考えられる事が第一歩なのです。そして、この道も、私も、空気も、太陽も、全て一つの物として区別できませんね? 人は細胞の集まり、道や空気や太陽はどれも元素の集まりです。では、人間の感情・意思は何の集まりですか?」 「・・・・・・心?」 「その心の所です。心はどんな物が集まっているのですか?」 「んなもん・・・わからねーよ。」 「では、あなたは書かれた人間ですね。書いた人間は少なくともどんなものか言う事ができます。 ただし、書いた人間もまた書かれた人間である以上、限界があるのです。そして、その答えを知る人もいないのです。 あなたは答える事ができなかった。私も答える事はできない。そして、最後の質問ですよ。命を説明して下さい。」 「い、命は・・・生き物にあるものとしか・・・」 「そうですか・・・命は本当に生き物にしかないのですか?鉛筆にも、万年筆にもないのですか? 人間が作ったものに命は籠ってないと、そうおっしゃるのですか?それは間違っています。 生きている人にも、死んだ人にも、落ちている石にも、命はあるのです。ないとどう説明できるのでしょうか? 命は形です。形がなくなるまでは全て命です。原子のひとつ、電子のひとつに至るまでにです。 命とは別に魂と言う言葉もあります。魂とは何かと言えば、命ともう一つ対極的な存在として使われています。 魂は目にみえないもので、特に思考や感情として存在するとされるものです。 しかし、魂もまた道具等には全く無いのでしょうか?いや、それを証明する事はできないでしょう。 そして、人間自身にも魂があるか問われます。やはり、人間にもあるとは証明できないでしょう。 何故かと言えば、書かれた人間には存在も感情も、文章の中でしかないのですから。 書いた人間ですら、文章の中の存在でしかないのです。文章の中では、人間はただの文字の集まりなのです。 それが分かれば、世の中で何が起きたにせよ、冷静に対処できるでしょう・・・それでは。」 男は帽子を取った。しかし、乱馬には男の顔が見えなかった。まるで、顔がなかったかのように・・・ 終わり。